夏も本番になってきました。暑さに負けず頑張りましょう。

わたしたち人間は死後どうなるのか?

こんにちは。ヒーリングルームNatural*Garden 川村 裕美です。

今日は、わたしたちが死んだあとの話を書いてみようと思います。

参考にさせてもらった本は『幽真界研究 勅使河原太鳳著』です。

一霊一魂の質によって、幽界の住所が決められます。

帰幽後、わたしたちは悟りの程度によって、行き先が定められます。一霊一魂の質に従って幽界の住所が割り当てられ、そこで更に神界を目標にして、長い修業生活を送ります。

鮭が生まれ故郷を目指して川をさかのぼるように、人間も一霊一魂の古里にたどり着くべく、何階層もの幽界を通過しなければならない、とのこと。

上へ上へと目指します。

神判を受ける

死後は、一旦、産土の神様のところに収容されます。

そして、神無月になると、産土の神様のお導きで、出雲神界へ出向きます。そこで、大国主命、少名彦那命の二柱の神様の神判を受けます。(その間は、一霊は天之御中主神に復帰しています。)

生前の言動や一霊一魂の成長度合いを審査されるということ。

この時に、魂が魂(こん)の状態のときは、人間は神聖さが全面に出て、あまり問題がありません。この時に、魄(はく)が働いたときには、問題となる。つまり、どのくらい私心を働かせたのかという程度が問題になる。

行き過ぎると、自らのことを中心にするため、ついつい利己的になったり、欲望が募ったり、他者を蹴落としたりする。

こういった場合は、煉獄界に連れて行かれます。

魄は煉獄界(2次元)へ送られる

問題はこの魄だそう。私心を発揮しすぎた分を祓うために、煉獄界へ送られます。

肉欲、名誉欲、利己心などがその対象になるとのことです。(行き過ぎた、食欲・性欲・金銭欲・名誉欲・権勢欲)

そして意外なことに、たとえ無上の善人でも無神論者の魄霊は、煉獄界で禊を余儀なくされるそう。神の存在に気づかない事自体、霊的な穢れのなせるわざだからだそうです。いくら利己心がなくても、どんなに良心的な人物であっても、ゴシゴシ洗われます。

通常、ここは、30~50年かかると言われています。早い人は、わずか数年で禊が終わるそうです。

生存中より、魄の浄化に努めていたら煉獄界に行かなくてもいいらしい

また生存中から魄の浄化に努めて純魄(魂と調和した程よい魄)に仕上げていると、死後、速やかに霊胎を結成でき、どうにか神仙界の末端にぶら下がることができるとのこと。

平常から、魄の行き過ぎに注意している人は、たとえ魄霊が煉獄界の上の方に行ったとしても、すぐに清まって出てこられます。

魄霊が煉獄界で禊を受けたあとは

魄霊が煉獄界で禊を受けたあとは、再度、魂霊と一緒になります。

そして、決められた階層で、また更に向上の道を進み、わたしたちは修行生活をおくります。

どこまで行ってもこれで良い、といった境地はなく、常に上を志さないといけません。

神仙界の神々でさえも日々、上へ上へと邁進されています。

まとめ

生きているうちに、どれだけ自分の中の「良くない部分」を改めて、世の中にどうお返しするか、が、死後の世界を決めるようですね。

「自分を大切に」、といった今の流れがありますが、でもこれが行き過ぎると、利己愛が強くなりすぎて、煉獄会へ送られる対象となるでしょう。著者の勅使河原太鳳さんは、この今の「自分大切論」を「自分執着」という言葉で表しておられました。

現代に生きる私は、とても厳しいお言葉だなとも思いました。ただ、間違っていもいないようにも感じます。

人間界は「自分を大切に」現象が起こっていますが、神界のルールは「他者へどれだけ奉仕するか」というところに重きが置かれており、これは現代に置いても変わっていないように思うのです。神の神判基準はそのままに感じられます。どれだけ世の中に貢献するよう頑張れるか。死後、ここが一番に重要視されるでしょう。

どんな小さな事でもいいと思うのです。ゴミを拾ったり、優しい言葉をかけたり、仕事で誰かの役に立てていたり。仕事をしっかりする、といのは馬車馬のように働くということではなく、淡々と誠意を持って与えられた仕事をこなしていくということです。

そうやって、平和をわたしたちは作り出すことができる力を持っていることを自覚し忘れないことが大切だと感じました。

この世界を住みよい、明るい、平和な世界を作り上げるために、わたしたちは生まれてきているので、頑張りましょう。

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