夏も本番になってきました。暑さに負けず頑張りましょう。

お金に困りたくない人は、毎朝太陽に感謝するといい。

今日はまた相曽誠治さんの本より、素敵なお話が載っていたので、書いてみたいと思います。

今、世間ではコロナウィルスも流行っていますし、オリンピックもひかえていますし、そのため、これからの経済状態に不安を抱えておられる方も多いのではないかと思います。

そこで、少し頼もしいお話が書かれていました。

早旦(そうたん)、日拝(にっぱい)百日せよ。

貧乏な青年が伊勢神宮に参拝

江戸時代、文化11年(1814年)のことです。

ある貧乏な青年がへとへとになって伊勢神宮に参拝しました。数日間、何も食べていません。五十鈴川の禊場で首を水中に突っ込んばかりになって水をガブガブ飲みます。背後でじっと見ていた気品ある老人が見るに見かねて声をかけました。

「もしもし、そこの若いお武家様。見ればたいそう空腹のようですが、食事を召し上がってはないのですか?」

「はい。もう数日、麦ひとつぶ食べておりません。」

青年の人相を見て、今は落ちぶれているが、やがて一世に名をとどろかす大変な器であると翁は見抜きます。

むさ苦しいところですが私の家へ着いてきなさい」

助けてくれたお爺さんは水野南北(みずのなんぼく)という有名な観相師です。当時、観相では日本一と言われた方で、後とのお屋敷には門人が3000人ほど出入りしていました。

助けられた青年が井上正鐵(いのうえまさかね)という20代半ばの武士でした。

水野が井上に教えた中に、「早旦、日拝百日せよ。病者おのずから回復し、貧者みずから富者になるべし」という古い伝えがあります。どんな病人でも早朝、お日様を仰ぐことを100日間続けたなら、必ず病気が回復して健康になる。赤貧洗うような貧乏人でもきっと金持ちになれる、という意味です。この教えを井上青年は実行しました。

神官となり布教で大変な勢力を得た

1年ほど水野南北に師事した後、井上は江戸に戻り、易と医術を生業にしました。

1833年、井上が42歳のときです。夢の中に神の使いが現れます。それがきっかけになり、5年後、京都の白川家に入門し、免許をとって神官として身を立てるようになりました。それが井上が51歳のときでした。

めでたく公許の神官になった井上は布教で大変な勢力を得ます。

ただ、あまりにも多くの信者が出入りするので、幕府が陰謀を企てているのではないかと警戒し始めました。そして、おかしくなってはいけないということで早く処分してしまえということになり、身柄を拘束して三宅島へ送ります。当時、三宅島は徳川幕府の天領で、流刑所にもなっていました。

ただ、やはり、慰問にいった信者が、そのまま島に住みつくものも出てきます。だんだん数が増えて、とうとう、三宅島の住人になってしまいます。もともとの三宅島の住人にも井上は布教をしました。こうして、三宅島では多くの人々が井上を囲んで宗教活動をしていたということです。

まとめ

幕府に目をつけられたこと、いけませんでした。でもそれはそれでよかったのでしょうね。島では充実した暮らしをされていたようです。

とはいえ、井上さんははじめは貧しい武士でした。日拝を始めて、そして、徐々にですが生計を立てていき、遂には、大きな勢力となっています。はじめは日拝からでした。そして、お導きがあり、突然神官の道に入ります。その道に入ったと同時に神官になるための努力もされましたね。

こういった正しい神様がつかれると、一気にバーっと成功、というよりは、徐々に徐々に、というケースが多いことに気づきます。努力もきちんとして、そして、神様のお力がそこに注がれるのでしょう。神様は努力される人がお好きなようです。

日拝をしよう!

お日様を仰ぐと、身体にも良い!ある別のお話では、ガンを宣告された方が、突然目の前にある太陽に手を合わせたいお気持ちになられ、いまある命の感謝を太陽に告げることを毎朝されるようになったら、いつの間にかがんが消えていた、といったことも、聞きました。

身体にも良い。そして、お金に困っている方にも良い。「日拝をするとご褒美がもらえるからいい。」、ということを相曽さんは別のページで書かれていました。

このご時世、身体もお金も不安になられる方も多いことでしょう。

毎朝、お日様の下に立ち、手を合わせて日々の感謝を伝え、そして、目の前にあることを淡々とこなす、努力する。そうしていたら、きっと天照大御神様はお力を注いでくださるのではないでしょうか。

参考文献

今日のお話は、相曽誠治さんの「超古神道Ⅱ 言霊と太陽信仰の真髄」から少しまとめて書かせていただきました。

山雅房(せんがぼう)さんより買えます。

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