エッセイ

なぜ、夜になると急に甘いものが食べたくなるのか

川村 裕美

こんにちは。いつもブログにお越しくださりありがとうございます。

前回、体の中にいる「七魄(しちはく)」のご紹介をしました。 七つそれぞれに、担当が決まっている、というお話でした。 今日は、そのうちの二つ。食べることのお話です。

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心当たり、ありませんか

夜、急に甘いものが食べたくなる。

お腹が空いていたわけでもない。 それほど食べたかったわけでもない。 それなのに、気がついたら食べていた。

そして食べたあと、少し自分にがっかりする。

そういう夜が、ありませんか。

私にもあります。先日もありました。

食べる鬼と、貪る鬼

七魄の中には、食べることに関わるものが、二つあります。

一つは、伏矢(ふくし)。 食べることをつかさどる鬼です。

もう一つは、尸狗(しく)。 むさぼることをつかさどる鬼です。

むさぼる、というのは、もう十分なはずなのに、止まらずに欲しがり続けることです。

この尸狗は、食べ物だけの鬼ではありません。 買い物で、もう十分あるのに、また欲しくなる。 動画を見終わっても、また次を開いてしまう。 何であれ、止まれなくなる時に働く鬼です。

それが食べることに出た時、伏矢と一緒になって、夜の甘いものになるのです。

では、食べることは悪いことなのでしょうか

ここで引っかかりました。

食べることに鬼がついている。 それなら、食べることは悪いことなのだろうか、と。

そうではありませんでした。

その本の見出しには、こう書いてあります。

「感の働きを妨害するもの」

感というのは、受け取る力のことです。

つまりこの本は、善い悪いの話をしていません。 邪魔をする、という話をしています。

食べることが罪なのではありません。 食べることに意識を全部持っていかれると、受け取る力が働かなくなる。

だから、鬼として立ててあるのです。

ここが分かって、私はほっとしました。

食べたくなる自分を、責めなくていいと分かったからです。

これは、良い悪いの話ではありません。 受け取る力が邪魔されている、というだけのことです。
だから、自分を責めなくていいのです。

食べたい気持ちと、止まれない気持ち

食べたくなる気持ちと、止まれなくなる気持ち。 この二つは、似ているようで別のものです。

伏矢は「食べたい」と思わせる鬼。 尸狗は「もうやめよう」を効かなくする鬼。

二つが重なると、お腹が空いていないのに、食べ続けてしまうのです。

それは、意地汚いからではありません。

食べ物のことが、頭から離れない

食べる鬼が働くのは、甘いものの時だけではありません。

次は何を食べようか。 どこのお店に行こうか。 食べ物のことが、一日中頭から離れない。

これも、食べる鬼の働きのように感じます。

美味しいものを楽しむのは、悪いことではありません。 ただ、頭の中がずっと食べ物で埋まっていると、ほかのことを受け取る場所がなくなってしまいます。

本の言う「感の働きを妨害する」というのは、こういうことなのだと思います。

味の感じ方そのものが、変わります

これは私の体験です。

受けているものが多い時期、私は外食のほうが美味しく感じます。 手料理が、物足りなくなるのです。

ひどい時には、ジャンクフードやお惣菜しか美味しく感じない日もありました。

意志が弱かったのではありません。 味の感じ方そのものが、変わっていたのです。

HPのセラピーのお話にも少し書きましたが、この夏、主人のセラピーをした後、私の味覚までがガラッと変わりました。 手料理が美味しく感じられるようになったのです。

驚いたのは、主人も同じでした。

「いつも買っていたあのお菓子が、美味しくなくなっている」

そう言い出したのです。

二人同時に意志が強くなった、ということはないと思います。

なぜそうなるのか、はっきりした仕組みは私にも分かりません。 ただ、あの本は、これらを「感の働きを妨害するもの」と呼んでいます。

感は、受け取る力です。 味を感じるのも、そのひとつだと思うのです。

だから、味覚が計器になります

我慢する必要はありません。 測ればいいのです。

強い味ばかりが美味しい日。 手料理が物足りない日。

そういう日は、たぶん受けています。

そして整ってくると、勝手に戻ります。 薄い味が美味しくなります。

戻った時に、自分で分かります。

見分け方は、三つだけ

全部を虫のせいにしてしまうと、今度は何も信じられなくなります。

見るところは、三つで十分です。

急に来たかどうか。 理由があるかどうか。 いつもの自分と違うかどうか。

この三つがそろった時だけです。

疲れている時に、体が甘いものを欲しがることもあります。 それは、理由がある側です。 体が必要としているのですから、食べていいのです。

そろっていなければ、それはただの好みです。 食べたかったから食べた、それでいいのです。

気づいた時点で、半分は外れています

いちばん厄介なのは、自分で選んでいると思わせるところです。

自分が食べたかった。 自分の意志が弱いから。

そう思っている間は、ずっとそこにいられます。 気づかれないことが、いちばんの居場所だからです。

だから「あれ、これは私じゃないかもしれない」と思えたら、その時点でもう半分は外れています。

難しいことは要りません。 気づくだけでいいのです。

そして、それが何なのか、どこから来たのかは、追いかけないでください。 考え続けると、そちらが大きくなります。

名前は、知っておくだけで十分です。

削るためのものではありません

その本の最後に、こう書いてありました。
これらは、人が組み上がっていくために要るものである、と。

無くすべき邪魔者ではないのです。
だから、責める話ではありません。

今夜また甘いものに手が伸びたら、思い出してください。

食べる鬼と、貪る鬼は、別です。

(残りの五つも、また一つずつ書いていきます)

(この記事は勅使河原大鳳著『幽真界研究』を参考にさせていただきました)

ABOUT ME
ひろみ
ひろみ
セラピスト/ブロガー
精神世界を探求・研究し続けてきて21年。退行催眠のセラピスト。また、夢を見てメッセージを受け取ったり、夢を使ってヒーリングを行うこともしている。いつの間にかどこからともなく夢でメッセージが来るようになり、そのメッセージをこのブログで発信中。
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